御幣川(おんべがわ)の高土堤跡
上杉謙信病没後、天正十六年(一五八八)上杉景勝がその跡をつぎ北信四郡を統括していた頃、犀川から分流され小松原を通る御幣川と岡田川、聖川等が
合流して沼や沢を作り氾濫(はんらん)を繰り返していたので、清水戸右衛門(上杉家臣)が河川工事を行いました。
戸右衛門は聖川を南に流し河川別に堤(つつみ)を築くと共に御幣川の西に、村を水害から守るため高土堤を築きました。
幣川(みことがわ)神社の西から宝昌寺(ほうしょうじ)の西を通り香福寺(こうふくじ)の西より岡田川に達する高土堤で、現在「西土手」とよばれています。
この高土堤を横切る二本の道路には、洪水の時に村内への浸水を防ぐため「たて板」が施されていました。
建設省千曲川河川工事事務所発行の地図に「堤防水防門遺構」と記載されています。水と闘い村を守ってきた貴重な文化遺産として後世に伝えたいものです。
水害の歴史を顧みると、千曲川最大の水害と言われる寛保二年(一七四二)の「戌(いぬ)の満水」は、稲荷山、塩崎の堤防が決壊し濁流が御幣川村を一なめにしました。戸数七十三戸のうち六十戸が流失し、百二人の犠牲者がでました。明治時代にも千曲川、犀川の大洪水に見舞われ、被害がその都度甚大でありました。水害に苦しめられた住民にとっては、堤塘(ていとう)工事や千曲川堤防改修工事などの治水事業は悲願です。
昭和八年(一九三三)岡田川に暗渠(あんきょ)・門扉(もんぴ)が完成し
昭和十六年(一九四一)には、千曲川の大改修工事が完成しました。
平成二十三年九月
御幣川区
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